-与那原通(よなばるつう)-

国費留学で県外に出たとき、郷土愛に目覚めました。 【前編】

2013年5月20日(月)

「照屋会長のインタビューはしないの?」「いつやるの?」といった声を何度となく耳にしていたのですが、いよいよ実現しました。照屋会長とは、もちろん与那原町商工会会長・沖縄県商工会連合会会長であり照正組(総合建設業)の代表取締役社長である照屋義実(てるや よしみ)氏。お忙しい中、時間を割いていただいたインタビューは3時間余りにも及びました。割愛するにはもったいない話ばかりなので、前編・後編にわたってご紹介いたします。

 

【前編】

 

照屋会長

 ─幼少期の思い出をお聞かせください?  

 

旧JAおきなわ与那原支店があった場所(以前は与那原町庁舎でしたが)、その付近の森下区で生まれまして、運玉森に登ったり与那原小学校前にあった川を飛び越えて度胸試しをしたり、野や海を駆け回る天真爛漫な幼少期を過ごしました。

 

与那原小学校では、雨漏りのする茅葺き校舎や、米軍払い下げのコンセットと呼ばれるかまぼこ兵舎を活用した校舎で授業を受けた記憶が残っています。現在駐車場のある場所には防空壕跡もあり、小学生の頃には不発弾が爆発して山火事になるなど、幼少期はまだ戦争の爪痕が色濃く残る時代でしたので、戦後生まれであっても平和を願う気持ちが芽生えました。

 

ところで5月21日は何の日がご存知ですか?

 

─5月21日ですか?  

 

与那原町独自で制定している「与那原町民平和の日」です。戦時中、与那原小学校敷地内に日本軍の兵舎があったため、与那原は運玉森の形が崩れるほどの激しい艦砲射撃を受けました。平和の尊さを忘れないように定めたそうです。戦争の怖さを語れる人が少なくなってきている今だからこそ、語り継ぐことが大切です。こうした思いもあり、1959年6月30日に米軍ジェット戦闘機が墜落した宮森事件を題材にした映画「ひまわり」を成功させる沖縄県民の会に賛同し、副会長として協力させていただきました。宮森事件で奪われた18名の犠牲者の中には私と同年代の児童もいたので他人事とは思えません。ですが若い人のほとんどが宮森事件を知りません。亡くなられた方々を思い事件を伝えていくことが、生きている者の使命ではないかと、お手伝いさせていただきました。

 

 

─社会貢献をされている理由は、こうした背景もあるわけですね。  

 

正直に言いますと、国費・自費留学生として福島大学に行くまでは、社会貢献や沖縄を意識したことはありませんでした。高校時代は生徒会長を務め、柔道や新聞部など部活に励み、ときには教師と激論を交わすなど、バンカラな学生時代を過ごました。大学は県外に進学すると決めていましたが、受験勉強をほとんどしていなかったので高校在学のときから1年間浪人すると計画していました。ただ周囲の目もあり琉球大学を受けたら運良く合格してしまいまして…。親戚から合格祝いをいただいてしまった手前、4カ月は通い退学してからチャレンジすることにしたのです。試験の結果を見てから退学届けを出しても遅くはないという声もあったのですが、背水の陣で挑みたかったので退学してから受験しました。

 

 

照屋会長

─それで福島大学に入学されたと…。

 

県外で視野を広げたくて国費留学の道を選びました。福島ですぐに気がついたのは、地元新聞記事の内容です。沖縄では連日米軍の事故・事件が繰り返し報道されていたのに対し、当時の福島の紙面はとても穏やかでした。そのとき初めて沖縄を意識しました。ちょうど沖縄返還の関心が高まっていた頃でしたので、市内の短大や専門学校などの学生自治会からの呼びかけでさまざまな場面で沖縄について話す機会が増え、沖縄のことを真剣に考えるようになり郷土沖縄への思いが深まっていきました。

 

 

─卒業後、沖縄に戻られたのですか?  

 

本土のビジネスを勉強したかったので大阪(本社)の商社に就職しました。このときすでに家業を継ぐという決意は固まっていましたが、父には伝えていませんでした。そんなとき父・正義が病に倒れ、東京にいた弟から「親父は看板を下ろすつもりでいる」と聞かされ、復帰後の1973年の暮れに沖縄に戻ってきました。26歳のときです。お世話になっていた会社の上司には引き止められましたが、「沖縄の本格的な復興はこれから。本土で学び働いた経験を生かして役に立ちたい」と郷土づくりへの参加を熱く語ったことを覚えています。

 

 

─帰省後すぐに照正組に入社したのですね。

 

いいえ、親父に「呼びもしないのに何故戻ってきたのか?」と言われ、「家業を継ぐ」と言うに言えず、1カ月ほどブラブラしていました。そんな私を見て「外で働く気がないのなら、家で仕事をしろ」と言われ、家で働くことができました。作戦勝ちです(苦笑)。それから1年後に戻ってきた弟が即戦力として現場に入り、私は営業活動や経理・総務などの業務を行っていました。当時はまだ個人の業態でしたが、「これからの時代は法人化にするべき」と提案したところ賛成してくれたので、3年かけて個人と事業の財産を整理し、1977年に株式会社照正組を興しました。社長から全権を任され銀行印と実印を渡され専務取締役になったのですが、うかつなことはできないと責任の重さを感じました。

 

 

─当時の建設業界の動向はいかがでしたか?  

 

建設業界はどの業界よりも景気変動の影響を受けやすいため、山あり谷あり、しのぎを削りながら生き残るのは大変です。当時は本土復帰を果たした後で沖縄振興開発計画が立ち上がり、公共工事が活発に行われており、当社でも公共工事8割で民間工事はその合間にやる程度でした。しかし、いずれ公共工事はなくなるかもしれないと不安を感じていたので、経営戦略として民間工事移行を想定し自社で設計事務所を持とうと提案したところ、弟をはじめ技術者全員に猛反対されました(苦笑)。設計事務所を自社で持つということは、これまで仕事をいただいていた設計事務所とライバル関係になるため、施工の仕事がなくなると危惧したのですね。でもこのままではいつまでたっても自立した会社になれないと説得し、一級建築士事務所と不動産会社を合わせて立ち上げました。

 

このとき県建設業協会の青年部長にも就いていたので、建設新聞のコラムに公共工事脱却宣言を掲載したところ、ほとんどの同業者の方に「何をばかなことを言っている」と嘲笑されました。当時は第2次沖縄振興開発計画の後半で公共工事真っ盛りの時期。ほとんどの方は公共工事からの脱却は考えていなかったと思います。唯一、金秀グループ創業者の呉屋秀信氏から「君、いいこと書いたね」とお褒めの言葉をいただきました。うれしかったですね。

 

 

照屋会長

─実際はいかがでしたか?  

 

知人から紹介された、節税型の不動産を手掛ける九州の建設会社とフランチャイズ契約を結び、県内で初めて土地付きマンションの1棟売りを手掛けました。まだ売り手が決まっているわけでもなく、依頼もされていないのに土地を購入しマンションを建てて販売するので、ある意味冒険でしたが、これが飛ぶように売れました。高額所得者の節税対策と不動産投資として需要があったのです。いわゆるバブルです。着工もしていないのに図面だけで売れることもあり、1カ月おきに1棟のペースでマンションに着手し、2年半で14棟まで販売しました。ですが資金投下を広げ過ぎて資金繰りが窮屈になり、これはちょっとおかしいなと。当社は創業者の「支払いを待たせるな」という教えから手形でなく現金決済を行ってきましたが、このときはさすがに支払いを待ってほしいと1度だけでしたがお願いをしました。

 

当時すでに経営は任されていましたが、創業者の直感とでも言うのでしょうか、「数字を見せてみろ」と言われ報告すると、「バカタレ、早く手を打て。このままだと倒産するぞ」と一喝されました。

 

後編へ続く。(5月下旬予定)