-与那原通(よなばるつう)-

1950年代の与那原大綱曳を撮影した写真家 ──Blackieさん 【前編】

2014年7月10日(木)

以前、1950年代に撮られた与那原大綱曳の動画について紹介しました。

撮影者は1949~1968年の間、沖縄で暮らしていたBlackie(ブラッキー)さんという米国人の写真家。動画はその息子さんであるBrad(ブラッド)さんがネット上で公開したものでした。

 

与那原通「スタッフブログ」記事

 

●これはすごい! 1950年代の与那原大綱曳…

http://yonabaru-too.com/staff_blog/9631.html

 

少し前にTwitter経由で与那原通のフォロワーさんから紹介してもらった動画があります。 1950年代の沖縄の様子を撮影した…

 

 

この記事をきっかけに、与那原町の広報誌でBlackieさんの動画が紹介されたり、与那原町教育委員会・生涯学習振興課企画イベントで、この大綱曳の映像が使われたり、さらに息子さんであるBradさんからも「この記事がきっかけで、父親のかつての仕事仲間と数十年ぶりで連絡がとれた」とお礼があったり…と、うれしい反響がいくつかありました。

 

それ以来、Bradさんとは時々メッセージをやりとりしていたのですが、数ヶ月前に、父親の当時の仕事仲間を(メールを介して)紹介されました。

そもそもBlackieさんはどういう経緯で沖縄の写真を撮ることになったんだろう?となんとなく気になっていたわたしにとって、これはいい機会です。今回、息子さんとその仕事仲間の方に彼にまつわる話を聞いてみることにしました。

 

 

沖縄に来るまで

 

blackieさんBlackieさんの本名はErnest Gordon Bradford

カンザス州生まれニューメキシコ州育ちの彼は、1940年、18才でアメリカ空軍に入隊。第二次大戦中はTechnical Sergeant(一等軍曹)として、欧州でのミッションに参加しました。その際、ウィーンで撃墜され、ユーゴスラビア近くのヴィス島に墜落するという経験をし、そのことが人生の大きな転機となったようです。1944年11月5日のことでした。

 

戦後、1947年にVirlin Lyonsさんと結婚した彼は航空写真学校に通い、ニューギニア、ボルネオ、フィリピンなど遠く離れた地域の地図作成を手伝います。これが写真家としての第一歩となったようです。

 

そして、1949年10月(※)、ついに沖縄へやって来ます。約1年後には家族も沖縄に揃い、ここから彼の18年間半に及ぶ沖縄生活がスタートしたのでした。

 

※資料によっては8月と記録されているものもある。

 

 

沖縄での生活

 

沖縄で暮らし始めた彼は、プライベートな時間を使って写真を撮り続けていたようです。そして、1952年2月、ついに11年半働いた空軍を離れ、写真家として独立して生きて行くことを決意します。

まずはキャンプ桑江に彼自身の最初のスタジオを開き、Bert Moserが設立したアメリカンフォトサービスという会社の傘下で働きはじめました。沖縄で米軍向けの撮影を行っていたアメリカンフォトサービスは順調に業績を伸ばし、1954年にライカムプラザの別店舗に続いて、嘉手納にも支店がオープンしました。

 

アメリカンフォトサービス

▲Bert Moserが設立したアメリカンフォトサービス

 

しかし、1957年にBert Moserが帰国することになり、アメリカンフォトサービスは売却されることになりました。その後は沖縄人の新オーナーが後を引き継いだそうですが、いろいろあって、Blackieさんは新たにキーストンスタジオ(Keystone Studio)津覇實雄(つは じつお)さんと共に立ち上げます。この津覇さんがBlackieさんのかつての同僚、通称Joeと呼ばれていた人物でした。

 

 

津覇實雄(通称Joe Tsuha)さんのお話

 

津覇さんはアメリカンフォトサービスの6人目の従業員でした。そして、牧港にできたお店でマネージャーとなりました。仕事が順調だった当時、会社の全従業員数は100名ほどにもなっていたそうです。

 

 

津覇夫妻

▲今回、Bradさんの紹介で話をお聞きした津覇實雄さんと奥様。奥様は實雄さんの当時の同僚で、その後もずっと一緒に働いたので、どちらもBlackieさんとその家族について詳しい

 

しかし、その頃社内では労使闘争が勃発し、ストライキが何度も起きてゴタゴタしていました。マネージャーとして、オーナーと従業員との板挟みの立場に嫌気がさした津覇さんは、結局、その写真店を辞めることに。その時、一緒に働かないか?と声をかけてきたのが、Blackieさんだったのです。

こうして、彼らはライカムプラザにキーストンスタジオを設立。登記上、日本人である津覇さんがオーナーとなりました。

 

──会社名をKeystoneにした理由は何ですか?

 

会社設立の手続きに行ったとき、まだ会社名は考えてなかったんだけど、そこで日系二世の担当の方に「Keystoneはどうか?」と提案されたのがきっかけ。米軍政府下にあった当時の沖縄では車のナンバープレートにもKeystone of the Pacificとかかれていて、重要な部分(要石)という意味のKeystoneはいいねということで決めました。

 

※当時の沖縄は米軍政府下にあり、極東最大の米軍基地となった沖縄本島は、米軍から太平洋の要石という意味で「Keystone of the Pacific 」と呼ばれていたようです。

 

 

──会社は順調でしたか?

 

ものすごく忙しかったですね。

最初はBlackieとわたし、それからBlackieがすでに自分のスタジオで雇っていた10名ほどの従業員と共にライカムプラザの中に部屋を借りてスタートしました。その後、今のプラザハウスの前に移り、最終的には大山にキーストンフォトサービス(Keystone Photo Service)という別会社も立ち上げました。ここでは、軍だけでなく、一般客のものも含めて、撮影写真の現像サービスや写真関係の商品販売を行っていました。

 

キーストンスタジオ

▲自分たちで立ち上げたキーストンスタジオの前に立つBlackieさんと津覇さん

 

 

着色カラー写真ちなみに、沖縄でカラーの写真をはじめてプリントしたのはキーストンスタジオだったそうです。

ただし、カラーといっても、モノクロ写真に手作業で着色する方法のカラー写真のことで、スタジオ内にはその着色担当の部署があったとのこと。デジタル全盛の今からすると、なかなか興味深い話です。

(右:当時の着色カラー写真)

 

 

──具体的にどういった仕事をしていたんですか?

 

スタート時は米軍向けの仕事でした。 Blackieが軍にいって仕事をとってきて、それをこなしていました。内容的には契約型の出張撮影、企業写真、ポートレート(肖像写真)といったものです。

例えば、軍の隊員たちの集合写真を撮って、その後、各個人のポートレートの撮影をしたり。ただ、それで終わりではなくて、それらを現像してでき上がった見本の写真を見せて、そこではじめて写真の申込を受けるというような流れでした。撮影された写真の購入は任意でしたが、アメリカ本土にいる家族に送るために購入する隊員は多かったです。

 

 

──津覇さんは撮影もされていたんですか?

 

わたしは、撮影の準備から、撮影、現像まで、ありとあらゆることをやっていました。休めたのはトイレにいるときだけ(笑)。Blackieは(さっきもいったように)軍との交渉と撮影担当でしたね。

 

 

──Blackieさんってどんな人でしたか?

 

きさくな人でした。何より能力のある人だったと思うね。彼がいたから、米軍からたくさんの仕事がはいってきたわけなので。

彼はきっかり15分昼寝して、それ以外は精力的に働いていましたね。

 

blackieさん

▲キーストンスタジオの社員の結婚式で記念写真に一緒に写るblackieさん(右上)

 

こうして、Blackieさんと津覇さんは8年間一緒に働きました。

Blackieさんがアメリカ本土へ帰る際には、キーストンスタジオの彼の出資分を津覇さんが買い取り(その頃には合弁会社の形をとっていたそうです)、そのまま会社を続けました。

 

しかし、定期的に行っていた米軍の記念撮影で、大型機材の運搬から設置までこなしていた津覇さんは、とうとう腰をひどく痛めてしまい、ついに写真の仕事から離れることにしました。そして、会社は城間さんという方に譲ったそうです。1971年のことでした。

その後はずっと京都で暮らし、一昨年の2012年の9月に久しぶりに沖縄に帰ってきたそうです。ちなみに、実は津覇さんのお孫さんは、与那原町役場で働いているんです。なんだか与那原と縁がありますね。

 

 

 

今回、津覇さんからキーストンスタジオが所有していた撮影写真のデータをお預かりして、すべてを確認する機会を得ました。その枚数、約8000枚! まだ観光地化されていない静かなビーチ、小さな村の光景、賑わう商店街の様子、何もかも巨大な米軍基地とその関係施設、農地や工場で働く人々、エイサー、綱引き、闘牛などのイベント、親子や子供たちの人物写真など、どれもこれも非常に興味深いものばかりで、確認作業中、時間を忘れてじっくり見入ってしまいました。

 

許可をいただいたので、いくつかご紹介しましょう。

尚、写真には撮影時期や場所などの記録がついていないので、各キャプションはわたしが調べてわかった範囲内の憶測でつけています。もしも間違いがあれば、お知らせください。

 

キーストンスタジオ所蔵写真

▲(写真左上より)1.稲刈の後,脱穀したもみを分けてると思われる女性 2.観光地化される前の斎場御嶽? 多くの人で賑わう今とは違ってひっそりとした雰囲気 3.沖縄駐留米軍の慰問と親善のために1955年に沖縄を訪問したヤンキースの選手  4.昔懐かしい素朴な個人商店

 

キーストンスタジオ所蔵写真

▲(写真左上より)1.普天満宮と思われる写真。拝殿が再建される前の姿か? 2.米軍関係者向けのイベントの売店。「ハットドーク 15円」の文字が時代を感じさせる 3.1955年に沖縄を訪れたヘレン・ケラー 4.北部と思われる(?)パイナップルの缶詰工場の様子

 

キーストンスタジオ所蔵写真

▲(写真左上より)1.今はみることのない松林の写真。場所は不明 2.たくさんの薪を運ぶヤギ。当時のヤギは働き者? 3.かまどの前で働く男性。焼いているのは沖縄料理にかかせない麩と思われる 4.西部劇を彷彿とさせる光景。嘉手納スポーツセンター内にあったレジャー用の牧場か何か?

 

膨大な写真の中には、よなばるんちゅに見せたい与那原大綱曳の写真もありました。それは後編でまたじっくりご紹介したいと思います。^^

 

 

これらの写真のネガはキーストンスタジオが最終的に閉鎖された後、巡り巡って、再び津覇さんの元に戻ってきたそうです。ただし、ネガフィルムなので、それだけでは写真データにはなりません。津覇さんはこの膨大なフィルムを京都の自宅の一室を仮の暗室にして、奥さんと共に少しずつプリントしたといいます。なんとも気の遠くなるような作業です。そしてそれらのプリントを息子さんがまたスキャニングして、現在、デジタルデータとして保管されています。

 

※ネガフィルムのデジタルデータ化の作業は、しばらくして専用ソフトを使うようにしたため、現像はしなくてもよくなったそうです。なので、途中からその分の作業は軽減できたみたいです。(2015年1月追記)

 

 

以下、後編へと続く!

 

 

 

 

※記事に掲載している写真の著作権はすべて、The Tsuha Blackie-San Okinawa Collection: Keystone Portrait Studios and “Blackie The Photographer”に帰属します。

 

 

文 fuu