踊りを心で伝える、渡嘉敷流 守藝の會 家元
2010年12月4日(土)
このサイトがオープンした当初から、「人物インタビューで紹介したい」と候補にあがっていたのが、今回ご紹介する金城光子さん。渡嘉敷流 守藝の會 三代目家元であり、与那原町商工会女性部部長を務め、スタッフブログの産業まつりの記事でも一度、ご登場いただいた。

産業まつりでシーサーを売り込む金城さん(左)
与那原町のブースで与那原大綱曵の綱を使ったシーサーを販売していたのが、金城さんだった。
「今回(産業まつりの参加は)初めての挑戦でしたが勉強になりました。私たちは販売も不慣れでしたが、他市町村の女性たちは売る気満々で、そのパワーに圧倒されっぱなし。この経験を今後の活動に生かしていけたらと思っているところです」。

金城光子琉舞道場を開いている
本年度(2010年)4月から女性部部長に就任。何をやっていいのか戸惑う中、半年が過ぎ少しずつやるべきことが見えてきたという。
「これぞ与那原の特産という商品を開発はできないか」「若い人が集まるためにはどうしたらいいのか」など課題は山積みだというが、先輩たちが築いてきた道を一歩ずつゆっくりと歩みながらも、与那原をアピールするために新しいことにチャレンジしたいと、意欲に燃えている。
そんな金城さんは東風平出身。20代の頃、与那原に移り住んで40余年。与那原との縁は踊りだった。
琉球舞踊を始めたのは7歳の頃。子どものころ逆さまつげがひどく、太陽に当たるとまぶしくて涙目になってしまうため外で遊ぶことができなかった。そんな金城さんのためにお母さんは、室内でできるお稽古ごととして琉球舞踊を勧めたのだ。
「小学生の頃は、余興などに出演すると、そのご褒美においしいご飯が食べられるのがうれしくて無心に踊っていた」というが、中学生の頃には踊りの師匠になると決意。卒業するとすぐに舞踊一筋の道を歩き出した。
20代後半、結婚後も舞踊を続けていたが、師匠だったお姉さんが沖縄を離れることになり、その代わりに与那原の稽古場を受け持つことになった。
当時は100名を超えるお弟子さんを抱え、中にはおばあさんほど歳の離れたベテランのお弟子さんも。そんなお弟子さんたちから「あなたが継がなければ、私たちはどこでお稽古をしたらいいの」と嘆願され引き受けることになり、家族で与那原町に移り住んだ。
「踊りがあったからこそ、与那原に受け入れてもらえた」という。本来、人見知りが激しく、引っ込み思案の性格だというが、子どもたちが通う小学校のPTAに積極的に参加するなど、与那原に溶け込む努力は怠らなかった。
40歳を過ぎた頃、琉球舞踊を教える県立芸術大学ができると聞いた金城さんは、「これからの舞踊の師匠は、身振り手振りで教えるだけではなく、理論的に説明できなければ」と思い、泊高等学校通信制を経て、沖縄大学に入学。わが子とほぼ同じ年齢の学生たちと机を並べ学んだという。

左/家元を任命する認伝 中/女踊りの名手と称される渡嘉敷流創設者(故)渡嘉敷守良先生 右/2010年2月に沖縄タイムス芸術選賞で奨励賞を受賞
「いろいろと苦労をしてきましたが、常に前に進むしかないというのが私の信念。何もできないから勉強するしかないんですよ」と、和服姿のたおやかなイメージとは異なる強さも覗かせる。
そのイメージのギャップを伝えると、「部長職はまだ新人なので控えめな方です(笑)。舞踊のことになると、もっと厳しいですよ」と、一瞬にして師匠の目に変わった。
「何をやるべきか見えているからこそ舞踊のお稽古は厳しい」のだとか。
「舞踊は形を覚えるのではなく、心を映し出すもの」。その信念のもとお弟子さんの指導にも熱がこもる。
現在は、国道331号沿い(マリンタウンゴルフ場入り口道路角)にある「金城光子琉舞道場」で初心者から沖縄タイムス琉舞選考会出場者、そして余興の練習まで、幅広く指導を行っている。
さらに沖縄が誇る伝統芸能を継承するために、底辺を広げようと毎週一回、コミュニティーセンターで小学生にも指導しているほか、国立劇場で行われる組踊に出演するなど、自身の踊りの探究も「踊れるかぎりは続けたい」という。
女手一つで子どもたちを育て、まさに芸で身を立ててきた金城さん。だからこそ凛とした美しさを醸し出しているのかもしれない。(czwrite:記)
【金城光子琉舞道場】
沖縄県島尻郡与那原町字与那原3591-1
TEL:098-944-0955
一般の部(14歳以上)/入会金1万円 月謝7000円
道場開催曜日/火曜日、金曜日(週2回)20時〜22時
学生の部/入会金1万円 月謝5000円
道場開催曜日/月曜日、水曜日(週2回)17時〜18時30分