-与那原通(よなばるつう)-

やんばる船で、与那原を盛り上げたい!

2012年7月17日(火)

「山原船(やんばるせん)が復元されるらしい」というニュースが飛び込んできました。山原船って、戦前の海上交通の要として、国頭地方から薪炭や木材などを与那原に運んでいたという、あの船のこと!? 本当にあの山原船ができるの? 噂の真相をさぐるために、ある方を訪ねました。

 

その方とは、与那原家具社長の石嶺英昭さん。与那原町に山原船を寄贈されるご本人です。

 

─突然で失礼な質問ですが、本当に山原船を造っているのですか?

 

そうだよ。今、復元に向けて平安座(うるま市)の越来造船の船大工・越来治喜さんと、その息子の勇喜さんに造ってもらっているところ。

 

私と同じように、当初は誰も信じなかったという。そこで石嶺さんが取った行動とは、極秘に計画を進めることだったそうです。

 

石嶺英昭さん─復元に当たっては、お一人で取り組んでいるのですか?

 

「山原船を復元したい」という夢は、昔からずっと持ち続けていた。復元にあたっては資金が必要なので、いろいろな人に声をかけたよ。皆、その場では「いい話だ」というけど、本気になって取り組もうという人は現れなかった。そうこうしているうちに自分も70歳を超えて、「今、やらなかったら一生悔いが残る」と、一人でもやろうと思った。まわりに相談すると反対されると思ったから、気持ちが揺るがないように、極秘で進めていた。山原船を造っても管理が大変なので、与那原町の助けも借りないといけない。だけど夢物語を語っても信じないと思ったので、船大工に契約・発注を取り付けてから、県議会の大城一馬氏を通して、与那原町につないでもらった。古堅町長も「とてもいいことだ」と応援してくれることを約束してくれたよ。

 

 

 

─そもそも何故、山原船だったのですか?

 

私の祖父が山原船の船主だった。といっても戦前の話で、私も2歳くらいだったから、記憶にはないけど、父から話を聞いていた。戦前は多くの山原船が、与那原港の沖に停泊していた。戦後も少しは残っていた。与那原港の沖に何隻か停泊していたよ。小学生の頃だったかな、沖に停泊している山原船まで泳いでいき、こっそり乗り込んで、船員用のごちそうを食べさせてもらったこともある。当時、船主といえばエーキンチュ(金持ち)だったから、船での食事も豪華だった。

 

戦前の山原船

戦前の山原船、手前は伝馬船※(出典:与那原町教育委員会)※当初「手前はサバニ」と記載していましたが、読者の方より「サバニ」ではなく「伝馬船」であるとご指摘がありました。

 

─以来、ずっと山原船が脳裏に焼き付いていたと…。

 

そうかもしれないね。船が大好きで、社会人になってからもモーターボートを2隻持っていたこともあった。当時、モーターボートを持っている人は少なくて、当添漁港にサバニはあったけど、モーターボートはなかった。

 

─山原船の復元を通して、どんなことをしたいですか?

 

戦前、山原船が行き来していたころ、船員相手の商売で与那原は賑やかだった。山原船から卸した荷物を各所へと運ぶための、馬車スンチャーが町を走り回っていたのを、子ども心にもカッコいいと思っていた。あの賑やかだった頃のように与那原を盛り上げられたらと思っている。

まずその手始めとして、「与那原大綱曵」で披露できたらと思っている。その後、どのように活用するかは、与那原町の皆さんが考えればいい。遊覧船として活用しても面白いと思う。東浜には水路があるので、そこを走らせることができたら、与那原の観光の目玉にもなるんじゃないかな。

予算は掛かったけど、私の夢でもあり、意地もある。もう後には引けない、やるしかないよ。

 

建造中の山原船(越来造船)

山原船に入れる“目”は、「寄り目が平安座」「まん丸が与那原」「楕円形が那覇」と、各地によって特徴があるそうです。もちろん今回は、「まん丸」です

 

 

着々と進む、山原船づくり 合資会社越来造船 越来治喜氏(ごえく・なおき)

 

 

海中道路を抜け、浜比嘉大橋の左手に広がる「平安座」。集落の一角にある合資会社越来造船は、全国的にも珍しい木造船の受注生産・修理を行っています。代表の越来治喜氏は3代目。昨年11月には、(社)国土緑化推進機構が選定する森の名手・名人にも選ばれている、沖縄を代表する船大工です。

その越来造船で、山原船の復元が着々と進んでいます。

 

越来造船

(写真左)船大工の越来治喜さん(右)船底の板1枚取り付けるのに最低1日は掛かるという

 

「これだけ本格的な山原船を造るのは、玉泉洞(おきなわワールド)の進貢船「南都丸」以来だから、15年ぶりくらいになる。木造建築物を扱う宮大工と船大工の大きな違いは、水に浮くかどうか。船を造る上で一番大切なことは水漏れをさせないこと。まっすぐの木を曲げたりひねったりしながら、船独特の丸みを造っていくので、隙間をつくらないように気を遣う」と、取材の間も手を止めることなく作業を進める越来治喜氏。

 

船大工の継承は、言葉で指導するのとは違い、親方や先輩たちの作業を見て学ぶのが基本。治喜氏も、2代目で父でもある越来文治氏やその右腕だった名工・宇保賢章氏の作業を見て、頭と体に叩き込んだという。自らの眼で見ることが重要な船大工。その昔、木造船には設計図はありませんでしたが、越来文治氏の線図を頼りに治喜氏が手を入れたものを使用。でも、最終的には目測で、ちょっとしたズレも見逃さず、正確な長さや傾きなどを調整しているそうです。

 

 

【編集後記】

50年近く温めてきた、「山原船復元」の夢。その実現には紆余曲折があったようですが、その苦労について多くを語らなかった石嶺さん。「もう後には引けない」と自ら鼓舞するその言葉に、壮大な夢を実現するための、並々ならぬ覚悟が感じられました。

今回復元される山原船は2隻。長さ約9m、幅約2mで、10名余りが乗れるそうです。8月19日に行われる「与那原大綱曵」の会場において、18、19日の2日間、展示が予定されており、その後は、与那古浜公園に常設展示されるほか、与那原マリーナにも置かれることになっているそうです。

 

山原船とは

海上輸送が主だった明治時代、国頭北部から首里・那覇に届けられる物資の輸送に山原船が活躍していました。山原船で与那原港に運び込まれた薪炭や木材などは、首里・那覇へと運ばれ、帰路は、酒や日用雑貨などを運んでいました。

馬艦(マーラン)船が正式な名称とも言われ、山原を行き来していたことから、愛称として山原船と呼ばれるようになったそうです。